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Jul 28 2020 13:00

【参加記あり】「グローバル・スタディーズの課題」シリーズ第4回「謝罪・赦し・和解の政治とグローバル化」

グローバル地域研究機構(IAGS)GSI

【参加記あり】「グローバル・スタディーズの課題」シリーズ第4回「謝罪・赦し・和解の政治とグローバル化」


グローバル・スタディーズ・セミナーのご案内

 

日時:      2020年7月28日(火)13:00-14:45

場所:      Zoom開催

スピーカー:            高橋哲哉
東京大学大学院総合文化研究科教授(超域文化科学専攻)

 

タイトル:                「謝罪・赦し・和解の政治とグローバル化」

 

要旨: 第二次大戦後、ハンナ・アーレントは活動action としての政治の復権を唱えつつ、活動結果の不可逆性に対する救済策として赦しforgiveness の役割を強調したが、全体主義の犯罪は「赦すことも罰することもできない悪」であると認めざるをえなかった。ショアー(ホロコースト)の裁きと赦しの問題は、記憶と忘却など関連のテーマとともに、1960年代の時効論争、1980年代の歴史家論争など、欧米では思想的な係争問題であり続けてきたが、集団的な暴力の「傷」をめぐる謝罪apology、赦し、和解reconciliationといった諸テーマが一挙に「グローバル化」したのは、1990年代以降であった。

 ジャック・デリダは、日本と韓国の例に言及しながら、こうした諸テーマの拡散を世界ラテン化mondialatinisation に結びつけて語っている。ドイツ大統領が「国民」の名において「赦しを請う」と語るとき、そこでは何が起きているのか。韓国の知識人が「日本は広島・長崎についてアメリカを赦すべきだし、それと同じように韓国は日本を赦すべきである」と語るとき、それは何を意味しているのか。謝罪から赦しへ、そして和解へというプロセスは、はたして実現可能なのか。少しく考察してみたい。

 

 

司会:  馬路智仁(総合文化研究科 国際社会科学専攻)

討論者:  田辺明生(総合文化研究科 超域文化科学専攻)

      國分功一郎(総合文化研究科 超域文化科学専攻)

              伊達聖伸(総合文化研究科 地域文化研究専攻)

言語:      日本語

 

問い合わせ先:        グローバル・スタディーズ・イニシアティヴ(GSI)事務局(contact@gsi.c.u-tokyo.ac.jp

「グローバル・スタディーズの課題」シリーズ:これまでのセミナーはこちらのページをご覧ください。

 

【セミナー参加記】

2020年7月28日にグローバル・スタディーズ・セミナー「グローバル・スタディーズの課題」シリーズ第4回が開催され、高橋哲哉氏(東京大学大学院総合文化研究科教授)に「謝罪・赦し・和解の政治とグローバル化」と題してご講演いただいた。

 

 高橋氏はまず、冷戦構造が崩壊した1990年代以降、「謝罪・赦し・和解」の問題がグローバル化していることを、ベルギーのフィリップ国王によるコンゴへの謝罪や、アルメニア人大量虐殺へのケイリー・マクナニー米国報道官による言及、村山首相談話を例に指摘した。フランスの哲学者ジャック・デリダは、元来聖書的な「赦し」の言説が欧米以外の地域でも普遍化しているこの動きを「世界ラテン化」の現われと捉えた。高橋氏は、「赦しは可能か」というグローバル社会が直面している課題についてハンナ・アレント、ウラジミール・ジャンケレヴィッチ、ジャック・デリダという三人の哲学者の言説を通して考察を進めた。

 

アレントは、ホロコーストを「罰も赦しも与えることが出来ない人間の力を超越した罪」とみなすと同時に、罰することの必要性も主張している。また、ジャンケレヴィッチは、赦しが加害者と被害者の間のみに成立すると捉え、第三者は赦す権利を持たないが故にホロコーストは償うことも赦すことも不可能と言及する一方、赦すことのできない過ちは存在せず、怪物的な罪にこそ赦しがなされるとも主張している。一方「赦しえないものがある」という事実を前提とするデリダは、正常化のための条件付き赦しを非純粋と捉え、対価なしに与えられる無条件的な赦しの存在を訴えるとともに、この条件付き許しと無条件的な赦しの双方の赦しは不可分であるとも述べた。高橋氏は、デリダの主張と自身の現在の主張が必ずしも一致しているとは言えないとしつつ、こうした議論の重要性を強調した。

 

高橋氏の議論に対し、田辺明生氏、國分功一郎氏、伊達聖伸氏がコメントを寄せた。まず田辺氏は、デリダの主張はローカルな視点、及び経験的営みを実践に移す試みが欠如していると指摘した。高橋氏は、デリダは基本的に「差異」を重視するが、「純粋な赦し」がイデアに似てくる面は否定できないと答えた。次に國分氏は、加害者が被害者でもあると認識することで、自身の加害性を引き受けることが可能になるのではないかと問いかけた。高橋氏はこれに対して、確かにそういった場合がありうることは否定しないが、誰が誰に対して被害者であり、加害者であるのかをきちんと整理する必要があると答えた。続いて伊達氏は1995年の高橋・加藤典洋氏の歴史主体論争と2015年の2人の著作に言及し、現在の高橋氏の主張が左から中道寄りに変化したのではないかという趣旨の指摘をした。これに対して高橋氏は、1995年当時から、自分が「日本国民」という枠組みを使っていることに対し、左側からの批判は存在していたと述べた。その上で、国民国家という枠組みが法的に現存する限り、それを容易に乗り越えられるかのような議論には与しないと述べた。他方で、安保体制を破棄できないものとして受け入れたわけではないと述べ、この問題をまずは沖縄の犠牲を認識する観点から議論し、本土が責任を引き受ける必要性があることを強調した。この他、参加者からも数多くの質問が寄せられた。難解ではあるが逃げてはならない問いに改めて向き合う機会が得られたセミナーであった。

【報告:山崎香織(東京大学総合文化研究科修士課程)】

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