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Jul 27 2021 14:55

【参加記あり】「グローバル・スタディーズの課題」シリーズ第16回「中動態によって問い直される近代的人間像」

グローバル地域研究機構(IAGS)GSI

【参加記あり】「グローバル・スタディーズの課題」シリーズ第16回「中動態によって問い直される近代的人間像」


日時:   2021年7月27日(火)14:55-16:40

場所:   Zoom Webinar

スピーカー:       國分功一郎
大学院総合文化研究科 超域文化科学専攻・准教授

 

タイトル:          「中動態によって問い直される近代的人間像」

 

要旨:  意志をもった個人が自らで自由に選択した行為の責任を負う──当たり前のことを述べていると思われるかもしれないこの一文の中に現れている六つの二字熟語のすべてを疑うことが現在の私の研究課題である。その出発点には一つの病との出会いと、自分自身の長年の哲学上の関心があった。その病とは依存症であり、自らの関心とはポストモダンと呼ばれる哲学・思想上の運動に関するものである。依存症は近代的(モダン)な人間のあり方の再検討を迫っており、その意味で、近代の後(ポスト)を目指す思想に大きな課題を突きつけている。そのことを知った私がこの課題への応答を試みるなかで思い至ったのが、中動態という文法カテゴリーのことであった。中動態を研究する中で、先に掲げた六つの二字熟語のすべてが問い直されることになったのである。本発表ではその道程を紹介しながら、私の考える、近代以後の哲学の使命を提示してみたい。

 

司会:  田辺明生(総合文化研究科 超域文化科学専攻)

討論者:吉国浩哉(総合文化研究科 言語情報科学専攻)
伊達聖伸(総合文化研究科 地域文化研究専攻)
馬路智仁(総合文化研究科 国際社会科学専攻)

 

言語:  日本語

「グローバル・スタディーズの課題」シリーズ:これまでのセミナーはこちらのページをご覧ください。

 

【参加記】

2021年7月27日、「グローバル・スタディーズの課題」シリーズ第16回が開催され、國分功一郎氏(東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻・准教授)により「中動態によって問い直される近代的人間像」というタイトルで報告が行われた。

國分氏は学生のころから、ポストモダン思想に関心を寄せてきた。その関心が「中動態」の探究へと結びつくきっかけとなったのが、依存症患者との出会い、具体的には依存症に苦しむ女性たちの自助グループとの出会いであった。彼女らは健常者の用いる言語が自分たちの経験を説明できないことに悩んでいた。

國分氏が強調したのは、「意志」に対する彼女たちの違和感である。依存症から脱するのに「意志」の力は全く無力であることを氏は教えられた。氏は哲学における意志概念への批判が、彼ら/彼女らによって生きられたものとしてあることに驚いたという。

更に、当事者研究の第一人者である熊谷晋一郎氏から、自身の研究が依存症の解明に役に立つことを知らされ、意志概念を批判することの重要性や、自立と依存の何たるかについて関心を深めたとも語った。

「意志」は能動性と深く結びついているというのが國分氏の最初の直観であった。そこから、能動と受動の対立は言語に由来するのではないかという仮説のもと、その対立の外部にある「中動態」について研究を始めるに至る。

中動態(middles)は古代ギリシア語に存在する態であるが、これまで明確に定義されてこなかった。元来古代ギリシア語には能動態と受動態の対立はなく、能動態と中動態の間に対立があった。能動態では動詞が主語から出発して主語の外で完遂するのに対して、中動態では主語は行為の内部にある。これに対し現代では、常に能動態と受動態を対立させるのだが、その対立はおそらく意志の有無と重なっていると國分氏は指摘する。氏は意志概念が古代ギリシアには存在しなかったという事実に言及し、その事実と中動態の存在とを重ねてみせる。つまり能動態と中動態が対立していた言語では、意志が問題にならなかったのではないかというのである。

ハンナ・アーレントによれば、「意志」の概念を発明したのはキリスト教哲学である。本来行為には無限の数の因果関係があるが、この因果の連鎖を切断して、行為者を行為の発端者とするのが「意志」である。

「意志」は普遍の概念ではないにも関わらず、特に現代社会で強い意味を持っており、絶対視されていると國分氏は述べた。しかし、意志が純粋な発端であるというのはあり得ないことである。それでは心のなかで「無からの創造」が行われていることになってしまう。その意味で「意志」は信仰の対象であり、行為を行為者の所有物とするという不可能な考え方がこの信仰の背景にある。

なぜこのような不可能な考え方がここまで広まっているのか。社会が責任を考えるにあたって、この不可能な考え方に依拠しているからだと國分氏は指摘する。

では、「意志」の概念、更には行為の行為者への帰属を批判的に検討した上で、どうやって責任の概念を再定義すればよいだろうか。responsibilityがrespondに由来するものだとすれば、意志の概念によって基礎づけられた責任は、一種の堕落した「責任」であろうと國分氏は指摘した。というのも、そこには応答responseの契機が全くないからである。

責任というのはむしろ、良きサマリア人のたとえのように、目の前にある状況に応答しようとしたときに発生する中動態的なものであると國分氏は主張する。他方、中動態の概念で責任を説明するからといって、能動態/受動態の対立が全く無効になるわけではない。中動態によって定義されるresponsibilityと並んで、能動態/受動態の対立によって定義されるimputability(帰責性)のようなものを考えられるのではないか。中動態の概念の導入によって、かえって帰責性がはっきりするのではないかというのが國分氏の考えである。

 國分氏の発表に対して、ディスカッサントからは文学作品に登場する依存症とその因果関係についての質問や、ルソーの「一般意志」を絡めた質問が寄せられた。國分氏は自身の研究は依存症そのものの治癒ではなく、そこで押し付けられている不当な人間像を解き明かすことにあると述べ、現代社会の病理の根幹を救う何かが必要であると主張した。また、グローバル・スタディーズとの関係については、中動態についての研究を通じて、インド=ヨーロッパ語族(そしてそれを生み出した西欧社会)の特殊性を明らかにできるのではないかと語った。

 フロアからもたくさんの質問が寄せられ、本セミナーは盛況のうちに幕を閉じた。

【報告:高島亜紗子(グローバル地域研究機構特任研究員)】