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Nov 29 2024 15:00~16:30

【参加記あり】第8回グローバル・スタディーズ・セミナー 棚瀬あずさ「詩を読むことと世界のあいだ――テクストと現実を繫げることをめぐって」

グローバル地域研究機構(IAGS)GSISPRING GX対象コンテンツ

【参加記あり】第8回グローバル・スタディーズ・セミナー 棚瀬あずさ「詩を読むことと世界のあいだ――テクストと現実を繫げることをめぐって」


【日時】2024年11月29日(金)15:00-16:30(開場時間は、14:45~)
【場所】18号館4階コラボレーションルーム4
【司会】伊達聖伸(総合文化研究科地域文化研究専攻)
【コメンテーター】吉国浩哉(総合文化研究科言語情報科学専攻)、國分功一郎(総合文化研究科超域文化科学専攻)
【開催方式】ハイブリッド開催。要事前登録。

【要旨】詩というものの読みかたがよくわからないという声を、文学を専門とする学生からさえもわりあい頻繁に耳にする。小説があらかじめ存在を想定されたある物語的時空間の描写として読むことができるのに対して、詩は、とりわけ文字として読まれるときには、特定の人の声でも事物のたんなる描写でもない、いわば宙に浮いた言葉としてそこにある。その言葉が属する〈場〉になにか得体のしれないところがあるのは確かで、多くの人が「わからない」というのもこのことに由来するのかもしれない。

詩的言語の〈場〉とはなんなのか。その言葉は、読者の生きる現実とのあいだにいかなる関係を結んでいるか、または結びうるか。これらはあまりに大きすぎる問いかもしれないが、本報告では、現代日本に暮らす日本語話者としてスペイン語圏アメリカの近代詩を研究してきた報告者の経験のなかから――英仏独語が中心をなす世界の文学空間のなかではともに周縁的な位置に置かれていたスペイン語圏と日本において、文筆とは中心との弁証法的な対話でもあった――、いくつかの思索の手がかりを探ることを試みる。言葉がときには無力に感じられることもある世界のなかで、私たちは詩を読みながらなにを考えることができるのか、検討してみたい。

【参加記】本セミナーは、「詩はいかにして読者の世界とつながりうるのか」という大きな議題をめぐり、文学議論からアクチュアルな話題までを包括した講演である。会場には講演者の棚瀬あずさ氏を含め、合計13名(教員8名・学生5名)の参加者が集まり、発表後には問題意識を共にする参加者から多くの質問やコメントが寄せられた。

セミナーは、「詩というものの読み方がわからない」という多くの人が一度は抱いたことのある思いの共有から始まった。この問題の背景にあるのは、詩においては多くの場合特定の空間が設定されず、言葉だけが現れるように感じられることである。棚瀬氏もかつてはそのような問題を感じた一人であったが、スペイン語圏の伝統的な韻律を持つ詩を読むようになり、詩の読み方について何かをつかんだような感覚があったという。棚瀬氏の研究対象であるニカラグアの詩人ルベン・ダリオ(1867-1916)は、従来の伝統的韻律に抗いながら新たな表現を模索したモデルニスモ期の詩人の1人である。実際に会場では、ルベン・ダリオの「Lo fatal(避けられぬ定め)」という詩篇を題材に、伝統的なソネットという形式をとりながら一部逸脱することによって生まれる空白から、生き続けなければならない人間の苦しみが読み解かれた。このように、たとえ典型的な伝統的韻律詩ではなくても、そして現代の自由詩であっても、その背景にはかつて伝統的韻律が開いてきた<場>があり、詩はそこに位置する言葉として読者に提示されているのではないか、と棚瀬氏は語った。

そして、セミナー後半では、この詩的言語の<場>がどのようなものなのかという問いが、音や声との関わりから議論された。まずここでウォルター・オングの『声の文化と文字の文化』が引用され、声とは本質的に消失するものであり、声の文化においては記録できないがために記憶しやすいようなリズミカルな形をとることが紹介された。次は、ジョルジョ・アガンベン『言葉と死―否定性の場所にかんするゼミナール』での議論が言及される。少々複雑であるが、アガンベンは、死と言語活動の間には本質的な関係が存在するのではないかというハイデガーの考えから出発し、言語活動の生起を表せるのはまだ言葉になっていない<声>であるという論点に辿り着く。我々は詩を読むとき韻律は意味の観点からは重要ではないと考えがちであるが、詩では音韻的要素が直接に本質的なことを言っており、詩は記憶と反復の場所であることを明らかにしているのである。棚瀬氏は、アガンベンによる<声>の定義の曖昧さには留意しつつ、このような詩の韻律的-音楽的要素がひとつの手掛かりになるのではないかと述べた。詩語の韻律的-音楽的要素は、消え去る声という肉体性をまとっており、声の主は置き換え不可能である一方で、詩においてはただひとりの個人ではない無数の「わたし」による反復が見られる。そして詩は、文字として描かれる時、朽ちるべき音や肉体の制約を超えてとどまるのである。

最後は、「詩的言語の<場>から現実へ」と題して、現代詩史手帖2024年5月号で特集されたパレスチナ詩を例に、詩と現実社会との結びつきが議論された。会場で示されたのは、パレスチナ難民の家庭に生まれたサーメル・アブー・ハウワーシュによるアラビア語詩(原口昇平訳)「もういいんだ私たちは 誰にも愛されなくても」という詩の一部である。かつて豊かな感性に根差した目や耳、心が今や余計なものになってしまっている切実な戦禍について、詩中の視覚や体感を通じいかにして読者は理解できるのかを議論し、話は結ばれた。

1人目のコメンテーターである吉国浩哉氏からは、伝統的韻律について発表中話題に上がった、日本の詩との差異について質問があった。日本においては、伝統的な和歌や俳句に対し、近代詩は西洋詩の要素を取り入れているというある種の断絶がある。2人目のコメンテーターである國分功一郎氏からは、現代の詩とおそらく最も密接に関わるポピュラーソングの存在について、そしてアガンベンの<声>の定義についてコメントがあった。音や反復というテーマから、会場では他の参加者を交え、デリダに関連する議論にも発展した。その他の参加者からも多くの質問やコメントが挙げられ、否定された人間性を回復するような詩の役割、人工知能との関わり、方言による韻律詩の存在、翻訳詩における声の変化など、多岐にわたる議論が行われた。

棚瀬氏は、コロナ禍や戦禍を背景に「文学ができることは何か」「文学研究の意義とは何か」を突き詰めて考えるようになったという。本セミナーを通じ、世界中で困難が続く今日の社会の中で、文学、そして文学研究がどうあるべきかという姿のひとつが大きく新たに掲げられたように思う。

【執筆者:佐藤優音(総合文化研究科地域文化研究専攻修士課程)】