【参加記あり】第7回グローバル・スタディーズ・セミナー 浜田華練「キリストはトイレに行かない?:「周縁」の神学論争から考えるキリスト教の普遍主義/多元主義の限界と可能性」
【日時】2024年10月11日(金)15:00-16:30(開場時間は、14:45~)
【場所】18号館4階コラボレーションルーム2
【司会】伊達聖伸(総合文化研究科地域文化研究専攻)
【コメンテーター】國分功一郎(総合文化研究科超域文化科学専攻)、オオツキ グラント ジュン(総合文化研究科超域文化科学専攻)
【開催方式】ハイブリッド開催。要事前登録。
【要旨】本論は、1150年前後に、アナトリア半島東部、ユーフラテス川上流から南西15kmほどに位置するメリテネ(マラティヤ)という都市で、シリア人キリスト教徒とアルメニア人キリスト教徒との間で生じた「キリストは排泄するか否か」の論争という、地域も時代もきわめて限定された、グローバルとは程遠いトピックを扱う。
「グローバル」は、今やあらゆる学問分野において不可欠な視座となっており、キリスト教研究もその例外ではない。長らく西洋(西欧&北米)偏重であったキリスト教史叙述において、東欧・ロシアや中東、アフリカ、中南米におけるキリスト教共同体の発展に関する記述の比重が高まりつつあることに加え、単に異なる地域のキリスト教史を寄せ集めるだけでなく、多様な主体が交流し、相互に影響しあう過程としてキリスト教史全体を見渡そうとする努力がなされている。
こうしたグローバル・スタディーズ的アプローチは、非西洋を含めたキリスト教世界の多様性を鮮明に描き出す一方で、キリスト教史で避けて通ることのできない、教義をめぐる神学論争と、それに付随する教会の分裂と宗派間対立の歴史を語ることの困難さを浮き彫りにした。キリスト教のような、「聖典」とその釈義を土台とする宗教において、教義とは「絶対的かつ普遍的に正しい」ことが前提となる。しかし、多文化主義を旨とするグローバル・スタディーズの文脈においては、特定の正しさへの拘泥は教条主義として批判されるべきものであり、あらゆる教理的正しさは相対化されなければならない。ただ、必ずしもその教会/宗派の当事者ではない研究者が、多様性の名のもとに、特定の教会/宗派の教理的正しさを相対化することは、果たして適切なのだろうか。言い換えれば、宗教のもつ普遍性への志向と、グローバル・スタディーズが目指す多文化主義・多元主義は、両立しうるのだろうか。
グローバル・スタディーズとは一見かけ離れたトピックをあえて選んだ背景には、こうした問題意識がある。東方諸教会の非カルケドン派に属するアルメニア教会とシリア正教会は、世界の大多数のキリスト教宗派(カトリック・プロテスタント・正教会)によって受け入れられているカルケドン公会議(451年)を承認していないことに加え、長らくムスリム社会における少数派キリスト教徒として存続してきたために、常にキリスト教世界の「周縁」に位置づけられ、「普遍的」キリスト教における例外的存在として扱われてきた。本論では、近代以降のキリスト教史において、非カルケドン派キリスト教、とりわけアルメニア教会がどのように周縁化されてきたかを概観した上で、非カルケドン派の内部で繰り広げられた、キリストが排泄するか否かという一見些末な事柄をめぐる論争を通じて、キリスト教における普遍主義と多元主義の両立の(不)可能性について探っていきたい。
【参加記】2024年10月11日(金)、第3シーズン第7回グローバル・スタディーズ・セミナーが開催された。講演者は浜田華練氏(総合文化研究科地域文化研究専攻・准教授)、司会は伊達聖伸氏(総合文化研究科地域文化研究専攻・教授)、コメンテーターは國分功一郎氏(総合文化研究科超域文化科学専攻・教授)、オオツキ・グラント・ジュン氏(総合文化研究科超域文化科学専攻・准教授)が務めた。「キリストはトイレに行かない?:「周縁」の神学論争から考えるキリスト教の普遍主義/多元主義の限界と可能性」という興味をそそられるタイトルは、質疑応答の際も一度ならず言及されたが、このタイトル自体、非当事者による研究の倫理という、本講演の問題意識に関わる一つの実践として捉えられよう。
本セミナーはキリスト教東方に対する、近代アカデミアにおける西欧中心主義的な研究動機を見直すとともに、「周縁」とされる地における議論を「中心」の文脈にいかに接続することができるかを問うものである。セミナーは四部構成となっており、その骨子は次の通りである。(1)「「周縁」を研究する意義はどこにあるか?:近代西洋と「キリスト教東方」」では、「私たちはあなたたちの冷蔵庫ではない」というアルメニア人修道士の発言に象徴されるような、失われた伝統が保存されている「周縁」としてキリスト教東方を眼差すことの問題が提示された。(2)「教義史における「周縁化」」では、キリストが「神であり、かつ、人間である」ことがいかに可能なのかという問題をめぐる、カルケドン派と非カルケドン派の論争が示された。(3)「非カルケドン派の内部の対立:セウェロスとユリアノスの論争」および(4)「シリア・アルメニア間の「キリストの排泄」をめぐる論争」では、キリストの身体が腐敗するか否かという問題、そしてその延長線上にあるキリストの排泄をめぐる論争が、非カルケドン派のキリスト理解においてこそ成り立つ議論として捉えられたうえで、この論争をいかに「普遍的」な文脈において位置付けられるかが問われた。
質疑応答ではまず國分氏が、(1)レヴィ=ストロースに始まる、文化人類学における文化相対主義的な反省が当該分野で意識されているかどうか、(2)キリスト教東方に古き伝統を求める例として提示された、イギリスの研究者フレデリック・コニベアによるアルメニア語文書の誤解釈の詳細、(3)カルケドン派/非カルケドン派のキリスト論争とギリシア哲学の関係について質問した。続いてオオツキ氏が、(1)人類学におけるケガレの問題を念頭に、当時の社会における排除すべきもの・守るべきものの境界線、(2)身体から排出されるものをめぐる当時の身体論、(3)アルメニアやシリアにおける当事者/非当事者による研究のポリティクスについて質問した。これらの質問に対して浜田氏より応答がなされたが、中でも重要な点は、(1)文化相対主義や非当事者(非信仰者)としての配慮が時に過剰となり、新世代の研究者が教義に立ち入らなくなっている問題、(2)アルメニア人を始めとする「マイノリティ」が自らの歴史を生存戦略の一部としてきた経緯と、それによる歴史観への影響であろう。今般の講演のアクチュアリティと広がりが再確認される活発な議論ののち、セミナーは閉会を迎えた。
普遍性と多元主義の共存可能性を問う本セミナーの問題意識は、宗教研究者だけでなく、非当事者として各地域の研究を行う多くの研究者にとって重要なものである。「中心と周縁」という構図をあえて引き受け、「周縁」に対する「中心」の都合の良い目線を退けつつ、「周縁」化されてきた側のストラテジーも検討する講演者の姿勢は、研究対象に対する学問的誠実さと適切な距離を求める試みにおいて、極めて示唆に富んだものであった。本セミナーで提起された重要な問題意識は、今後も探求され続けなければならないだろう。
【報告者:堤縁華(総合文化研究科地域文化研究専攻 博士課程)】