【参加記あり】第6回 グローバル・スタディーズ・セミナー 後藤はる美「ポスト真実の時代の歴史学――近世イギリスにおける感覚と感情」
【日時】2024年7月25日(木)15:00-16:30(開場時間は、14:45~)
【場所】18号館4階コラボレーションルーム4
【司会】國分功一郎(総合文化研究科超域文化科学専攻)
【コメンテーター】伊達聖伸(総合文化研究科地域文化研究専攻)、大石和欣(総合文化研究科言語情報科学専攻)
【開催方式】ハイブリッド開催。
【要旨】近年、歴史学の分野では、過去の人びとの感情や感覚のありかたへの関心が高まっている。数百年前の人びとは、私たちと同じように喜び、怒り、痛みを感じ、涙したのだろうか?ある感情は、時代によって姿を変えたり、新しく現れたり、消えたりするのだろうか?
欧米圏で2000年前後に始まる感情史の隆盛は、しばしば「感情論的転回」ともよばれ、神経生理学や人類学など、他分野との学際的交流のなかで展開したところに特徴がある。同時にこの動きは、現代社会において人びとの関心が感情へと向けられたこととも深く関係するように思われる。2016年にオクスフォード辞書が「今年の言葉」に指定した「ポスト真実」は、感情が世論形成にもたらす影響に注目した語であった。
本報告は、歴史のなかの感情と感覚の問題を、近世イギリスを主要な対象に考察する。16~18世紀のヨーロッパは、ルネサンスから宗教改革のなかで、それまでの「真実」が崩壊し、活版印刷術の普及によりコミュニケーションの性質が劇的に変化した時代である。他方で個々人の身体は、個人のものとしてよりは、いまだ社会的身体としてイメージされていた。たとえば、17世紀のある敬虔なプロテスタントの領主夫人は、地元でのペストの流行に際して集団祈祷を組織し、神との和解による終息をめざしたのだった。生理学によって普遍的なものと定義される以前の身体をもつ近世人の感情や感覚には、どのように、どこまで、史料から迫ることができるのか?こうした問題を「感じる」身体に注目しつつ考察してみたい。この作業は、現代における感情の問題を問い直すための、ささやかな手がかりともなるはずである。
【参加記】第6回GSIセミナーでは、「ポスト真実の時代の歴史学:近世イギリスにおける感覚と感情」という題で、後藤はる美氏(総合文化研究科・超域文化科学専攻)にご発表いただいた。
2000年代後半より、欧米圏では「感情論的転回」と呼ばれる大きな動きが起こり、歴史における感情について精力的に研究が行われ始めた。日本では2020年から21年にかけて感情史の入門書や概説書が次々に翻訳・出版され、後藤氏はこの時期を日本における「感情史元年」と位置付ける。
感情史が当初より課題としていたのは、「感情は普遍である」というテーゼの再考であった。普遍的な感情が存在するという、生命科学や心理学を中心とした本質主義的な感情理解に対し、歴史学や人類学は、感情は文化や社会によって異なるという文化構築主義的な感情理解を提示してきた。現在では、時代や社会によって感情規範は異なり、ある時代において支配的な感情規範とそれに伴う行動様式、すなわち「エモーショノロジー」が存在していたことが定説となっている。また、同じ時代においてもエモーショノロジーを共有する複数の「感情共同体」の存在が認められており、個人がそれらの間を行き来する動的なモデルが提唱されている。
感情史研究が近年存在感を増している背景には、感情に対する学問的関心のみならず、いわゆる「ポスト真実」の時代における、社会の側からの感情への関心の高まりも関係している。後藤氏は、客観的事実を主観的感情と対峙させて後者を問題とする現代の「ポスト真実」の枠組みそのものを問題視しており、これは近代へ向かう中で歴史的に形成された一つの枠組みに過ぎないと主張した。そして、その枠組みのあり方に疑問符を突きつける参照軸として、近世イギリスの状況を挙げた。16-17世紀のイギリスでは、宗教改革によってローマ教会の権威が否定され、相次ぐ革命によって国王の政治的権力も不安定となり、それまで絶対とされていた「真実」が大きく揺らいでいた。活版印刷の普及によるメディアの変革も、情報源としてSNSが広く用いられるようになった現在とパラレルであるといえよう。
近世イギリスにおける感情に対するアプローチの具体的な事例として、1599年から1605年にかけて書かれた、イングランド北部ヨークシャーの領主夫人マーガレット・ホービー(Margaret Hoby) の日記が紹介された。信仰の「基礎体温」ともいえる日々の祈りの状況を記録したホービーの日記を読み解くと、彼女にとっての祈りは、身体的感覚を伴う感情実践そのものであったことが見えてくる。日常の出来事にはほとんど触れず、信仰に関わる事柄を選択的に記述していたホービーだが、自身の居住地域におけるペストの拡大については言及しており、ペストを神からの裁きであるとみなしていた。彼女にとっての信仰の確かさは、単なる個人の魂の救済のみならず、地域社会の「浄化」と連動した実践であった。そこでの彼女の身体は、地域社会、ひいてはイングランドという国家全体にシームレスに拡張されるものと想像されており、現代における一般的な身体理解とは大きく異なる。
最近の研究では、感情は単に「持つ」ものではなく「行う」ものであると捉えられている。生理的メカニズムを基盤としつつも、皮下に埋め込まれた知(エモーショノロジー)とその実践の場としての身体理解は、普遍的かつ構築的身体の存在を前提にしており、これは感情をめぐる従来の「本質主義vs構築主義」の構図を超越するものであるといえるだろう。このような身体性が強調される感情理解に基づき、後藤氏は「感知する行為」を軸に、歴史における感覚と感情の問題に取り組んでいる。
感情研究は人文諸科学の問題と生命科学的な関心の合流点にあると思われ、学際的展開の中で、自然vs人間(文化)の二項対立を超えて感情研究が立ち現れるところに、後藤氏は今後の展望を見ている。
発表に対し、伊達聖伸氏(総合文化研究科・地域文化研究専攻)と大石和欣氏(総合文化研究科・言語情報科学専攻)からコメントが寄せられた。紙幅の関係上、すべての論点をここでカバーすることはできないが、2つの重要な議論を記しておく。
L.フェーブルらが展開した「心性史」と感情史の違いを問われ、後藤氏は両者のアプローチの違いを挙げた。心性史が集団的な感情や長期的に持続した感情に着目したのに対し、感情史では多層的な共同体の中で変化する感情を動態的に捉えることを試みている。また、ナショナリズム研究でも感情が問題とされてきたのではないかという指摘に対し、後藤氏は、レッテルとしての感情(語)がどう機能したのかは言説分析を通してすでに研究されているが、感情論的転回に始まる感情史研究においては、「どのように感じ、実践するのか」という身体性との関係をより意識する必要があると述べた。
終わってみれば、感情史研究に関する重要なポイントを網羅した、大変意義深いセミナーであった。感情史をめぐる学際的な研究動向からは、今後も目が離せない。
【報告者:イダマルゴダ バヌカ(総合文化研究科・地域文化研究専攻 博士課程)】