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Nov 30 2023 15:00~16:30

【参加記あり】第2回グローバル・スタディーズ・セミナー 藤崎衛「死すべき教皇と永続する教皇職—西洋中世におけるカトリック教会と教皇権の普遍性」

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【参加記あり】第2回グローバル・スタディーズ・セミナー 藤崎衛「死すべき教皇と永続する教皇職—西洋中世におけるカトリック教会と教皇権の普遍性」


【日時】2023年11月30日(木)15:00~16:30

【司会】伊達聖伸(総合文化研究科地域文化研究専攻)

【コメント】國分功一郎(総合文化研究科超域文化科学専攻)・田中創(総合文化研究科地域文化研究専攻)

【言語】日本語

【開催場所】ウェビナー(要事前登録)+18号館コラボレーションルーム2。

【共催】地域文化研究専攻(今回のグローバル・スタディーズ・セミナーは、地域文化研究専攻研究集会を兼ねるものです)

【要旨】グローバル・スタディーズの一環である本セミナーでは、今日グローバル化したカトリック・キリスト教と教皇の存在について考える一助として、ヨーロッパの中世にさかのぼってローマ教皇の地位と権限のあり方について考察してみたい。中世中期の11世紀後半からグレゴリウス改革や叙任権闘争として知られる「教会改革」が大きく進展し、その過程でローマ教皇は普遍的な地位を強化した。こうしてローマというローカルな都市の教会は全教会の指導者としての自意識を高めることとなり、「普遍的」(universalis)という付加語を伴って表現されるようになったのである。今回のセミナーでは、初代教皇と見なされる使徒ペトロ、教皇とローマ教会の霊的な婚姻関係、女性として擬人化されたローマ教会、その他の教皇職に関わる象徴などを取り上げて検討することにより、個々の教皇は死すべき存在で時間の制約を受けるとしても、教皇職や教会は永続的なものであるという考えが導き出された過程を明らかにする。

【参加記】2023年11月30日、グローバル・スタディーズ・セミナー「グローバル・スタディーズの課題」第3シリーズの第2回が開催され、藤崎衛氏(東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻・准教授)による報告「死すべき教皇と永続する教皇職——西洋中世におけるカトリック教会と教皇権の普遍性」が行われた。ハイブリッド開催であったが、フロアの参加者のほぼ全てがウェビナーでのオンライン参加であり、日本時間の午後遅くという時間設定も相まって形式の時点で既にグローバルに開かれたセミナーという印象である。

講演の内容は、現代においてはほとんど自明とされているローマ教皇の権威の普遍性がどのようにして成立したのかという問題を、ローマ司教座の起源にまで遡りながら11世紀から13世紀を中心とした歴史を辿ることで解明するものであった。「普遍性」には通時的なものと共時的なものとで異なるあり方を想起させられるが、本講演で念頭に置かれている「教皇権の普遍性」はその両者を同時に持つと言えるだろう。すなわち、ある程度以上歴史を遡ってもその「普遍さ」が認められ、またたとえば現代において「教皇」という存在はキリスト教圏のみならずそれこそ日本のような他の文化圏に属する人間にも権威ある代表者として認識されている。こうした「教皇圏の普遍性」がどこに由来するのかという本講演の議論は大別して1)教皇とは何者か、2)死すべき教皇、3)「普遍的教皇権」の誕生、5)「母・教師・花嫁」としての教会とそのイコノロジーという4つのトピックに沿って行われた。

各トピックの議論は以下のようにまとめられる。すなわち、1)「教皇」という称号そのものが歴史の中で徐々に形成されたものであり、本来「ローマ司教」ないし「ローマ・カトリック教会における最高指導者」であるという点でローマという都市と不可分の存在である。2)教皇となるのはあくまでいずれ死すべき人間であるという事実が権威の向上に伴って処理すべき問題となった結果、教皇職そのものの連続性を主張する動きから「教皇権の普遍性」という発想が芽生えた。3)11世紀後半の教会改革で教会組織が役所化することで教皇の交代によって教会の政治的意思決定が途切れるという事態が解消され、いわゆる叙任権闘争の帰結として教会権力と世俗権力の分離や神学と教会法との分離が成ったことで教皇の指導力が急激に増大し、「普遍的教皇権」という観念が名実ともに完成していった。4)同時にローマ教会に対し「人類の救済や新たな霊的命の源としての母」「地上のすべての教会の教師」「霊的・儀礼的結婚によって教皇と不可分となった花嫁」と解釈されることで、教皇の唯一にして最高の指導的立場とその安定性が主張され、浸透した。

以上の講演内容はその多くが2023年9月出版の藤崎氏の著書『ローマ教皇は、なぜ特別な存在なのか—カノッサの屈辱』(NHK出版、世界史のリテラシーシリーズ第4弾)に含まれている。今回の講演参加を泣く泣く見送る羽目になったという諸兄には参照をお勧めしたい。

さて、今回のコメンテーターには古代ローマ史専門の田中創氏並びに近現代哲学専門の國分功一郎氏が駆けつけた。講演者の藤崎氏を含め、それぞれの研究対象時代に大きく幅のある豪華かつ興味深い布陣であり、鋭くかつ多岐にわたるコメントが寄せられて活発な議論が喚起された。紙幅の関係上ここにその全てを記すことはできないが、グローバル・スタディーズの一環であるセミナーという本講演の位置付けに照らしてとりわけ意義深いものを挙げれば、やはり古代史まで遡れば本来「ローマ司教」という複数の重要な司教座の一つである「ローマ教皇」は普遍的権威などではないという点、そして複数の司教座の中でも「ローマ司教」は自らの権威やその正統性を主張するためにペトロとパウロという「個人」との繋がりを際立って利用しているという点であろう。現代にただ漫然と生きてしまえば所与のものとして受け入れがちな「普遍性」がそれ自体何者かの意図によって作り出されてものである、という視点は、まさに「グローバルな」世界を生きる上で常に念頭におくべき発想だと言えよう。

こうした白熱する議論の中で盛会のウェビナーは閉じられた。

【報告者:清野真惟(地域文化研究専攻博士課程)】