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Mar 17 2023 16:00~17:30

【参加記あり】第7回グローバル・スタディーズ・セミナー 吉国浩哉「カントとともにバートルビーを——ロマン主義の「それから」」

グローバル地域研究機構(IAGS)GSISPRING GX対象コンテンツ

【参加記あり】第7回グローバル・スタディーズ・セミナー 吉国浩哉「カントとともにバートルビーを——ロマン主義の「それから」」


【日時】2023年3月17日(金)16:00~17:30

【開催場所】ウェビナー(要事前登録)
【司会】伊達聖伸(総合文化研究科地域文化研究専攻)
【コメント】國分功一郎(総合文化研究科超域文化科学専攻)
【言語】日本語

【要旨】18世紀に小説が勃興し、19世紀初頭にはロマン主義がそれを「文学」の中心に据えた、さらに「その後」という文学・思想史的情況を念頭におきつつ、1856年発表のハーマン・メルヴィルの短篇「バートルビー」を読みます。その際に、読解のポイントとなるのがバートルビーの「不可解unaccountable」さです。この不可解さが、法律家による語りの中でどのように機能しているかを分析し、それを文学・思想史的文脈において位置づけた上で、このような語り手のふるまいに対して「バートルビー」という形象がどのような関係を切り結んでいるのか(いないのか)を検討します。
参考:ハーマン・メルヴィル「バートルビー」(柴田元幸訳 放送大学)
https://info.ouj.ac.jp/~gaikokugo/meisaku07/eBook/bartleby_h.pdf

【参加記】「~で~を読む」といった、所謂「文学理論」的アプローチによる文学テクストの事例化への反発として、作家が直接的、間接的に影響を受けた哲学的文献を考慮に入れながら文学テクストを読み解いていくというアプローチが今回の議論の出発点であった。「バートルビー」の作中後半、語り手はエドワーズとプリーストリーの決定論を読む。一方で自然の因果の全能性が持ち出されるのであればそれと対極に位置するものとしてのカントの「自由」についても考えなければならない。

カント以後、「自由」は認識、表象の対象から除外され、その理解や説明は不可能になってしまった。これにたいしてドイツ・ロマン主義者たちは「文学」を「自由を表象するメディア」として主張し、19世紀前半には、いくつもの「小説らしい」小説、「自由」を体現する小説の主人公たちが生まれた。自然と自由のアンチノミーに対応するかのように、小説の主人公たちは自身の社会的文化的状況と自己の主体性との間で葛藤し、決断する。二つの間で分裂し、悩み、そして「自由」な決断によって周囲から見ると「理解不可能な行動をする」人物が「自由な主体」として現れてくるのである。しかし、時代が下る中で、「自由であり」、「理解不可能な行動をすること」は、常識の範疇へと収められ、「自由」は到達不可能な謎ではなく「自由の幻想」、単なる個人主義へと変貌を遂げた。小説においても19世紀中頃には、従来のような「悩み決断する」人物とは異なる主人公たちが現れるようになる。このようなロマン主義以後=小説以後に位置づけられる作品として「バートルビー」を読解するとき、その「自由」の意味は複雑な様相を帯びる。

「無難さにおいてはこの上ない人物」という謙遜の裏に潜む優越感、そして、不可能であると強調しながらバートルビーの物語を語ろうとする点においても、語り手は分裂した、小説の主人公的な「自由な主体」として自己を表現していることがうかがえる。そして語り手は、バートルビーについても自由な主体として描写しようと試みている。カント的なバートルビーを語り手は「理解不可能なものとして理解する」ことでその描写を実現しているのである。「自由」なバートルビーに憧れる語り手は、物語が進む中でバートルビーの謎に耐えるという道徳的行為によって快楽を得、自身の「自由な主体」化を達成している。決定論を読み、神の意志を受け入れているかのようにも見える語り手は、実際には「神の全能」を物語る「自由な主体」としての自己を呈示していることが読み取れる。

にもかかわらず物語終盤、語り手はバートルビーから逃走する。ここで注目すべきは、バートルビーの恒常性を彼が脅威とみなしていることである。語り手が、バートルビーは石像や家具と変わらぬモノであることに気づき、「自由な主体」だと思っていたバートルビーの意味は180度転換する。単なるモノに人間性を見込んでいたことを発見することは、自由の理念の幻想化=カントの倫理の小説化によってもたらされる人間主体も、モノ、即ち自然と変わらないことを発見することである。このような語り手の否定的な洞察へのドラマとしてこの物語を読むことが出来る。

しかしながら、この否定的な洞察に至った後にも、語り手はバートルビーをモノとして扱うことは出来ない。物語終盤、語り手がバートルビーから逃げ出した理由を「近づきたくない」、「触れたくない」ためであるとすると、語り手には、バートルビーがモノであることを確認したくないという思いがあったのかもしれない。語り手がバートルビーの遺体に触れるとき、「ゾクッとした身震いが私の腕を駆け抜け、脊椎を貫き両足まで下りて」いく。つかみどころのない存在として呈示されてきたバートルビーは実は「つかみたくない」「さわりたくない」存在だったのであり、「誰の手にも届かない」という点においてバートルビーは配達不能郵便として現れてくる。印象的に現れるピラミッドの種は、アガンベン的なpotentialityを備えたものとして捉えられる。たまに芽が出る種、たまに届く手紙、偶然に語られるバートルビーの物語。潜勢力を持った種としての物語の発生がこの短編小説であると読むことも出来るかも知れない。

以上の報告を経て國分功一郎氏は、物自体とヌーメノンとの差異を指摘し、カント的に自由な存在としてのバートルビーに「ふれようとしない」ことは、「自由」のその不気味さを「考えようとしない」ことに繋がるのではないかと論じた。また、「科学」とカント的「道徳」の接続可能性、19世紀における「自由な個人」の登場の歴史的意義についても興味深い示唆がなされ、本セミナーは閉幕した。

【報告者:石橋瑛(教養学部学生)】