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Jan 26 2023 15:00~17:00

【参加記あり】第6回グローバル・スタディーズ・セミナー 斎藤幸平「グレーバーの価値論 マルクスの価値論との対話を通じて」

グローバル地域研究機構(IAGS)GSISPRING GX対象コンテンツ

【参加記あり】第6回グローバル・スタディーズ・セミナー 斎藤幸平「グレーバーの価値論 マルクスの価値論との対話を通じて」


【日時】2023年1月26日(木)15:00~16:30
【開催場所】ウェビナー(要事前登録)。
【司会】國分功一郎(総合文化研究科超域文化科学専攻)
【コメント】伊達聖伸(総合文化研究科地域文化研究専攻)・受田宏之(総合文化研究科国際社会科学専攻)
【言語】日本語

【要旨】ついに日本語でも刊行されたデヴィッド・グレーバーの『価値論』。だが、ここで展開される価値形態論は独特である。そもそもグレーバーのマルクス評価は両義的に見え、どのような影響関係があるのかは、十分に解明されていない。本発表はマルクスの『資本論』をてがかりに、グレーバーの価値論を再構成し、その資本主義批判の狙いを明らかにすることを目指す。

【参加記】「物々交換の神話」というものがある。人が貨幣を発明したのは交換における利便性のためである、という話がそれだ。しかしデイヴィッド・グレーバーは言う。そうした説を支える人類学的証拠は見当たらない、それは現在の状況を歴史的に逆投影しているに過ぎないのである、と。——ここには、市場経済の永続というイデオロギーを剔抉した、カール・マルクスの経済学批判と近いものがある。では、二人の理論の「対話」はどのようなかたちで可能となるのか。それが本セミナーの主題である。

予め結論を示しておくと、グレーバーは暴力による人間の数量化が、負債と貨幣の歴史を転換させたという。そしてマルクスとグレーバーの「対話」の余地はここにある。一体どういうことか。

補助線となるのはマルクスによる「私的労働」論である。つまり、まず前資本主義社会においては労働や生産物の分配という問題が、共同体における伝統や慣習を通じて、すなわち“社会的紐帯”に基づいて解消されていた。しかし共同体に降りかかる暴力(例えばエンクロージャー)は、こうした“紐帯”を解消してしまう。人々は共同体から切り離され、「私的労働」が一般化するのである。商品生産社会はこうして発生する。グレーバーの言う暴力とは、“社会的紐帯”を解体する力のことであり、「私的労働」を拡大させる力のことだったのである。

そして、共同体から切り離された人々の活動は、ある特殊な手段を通じてのみ全体のうちへと統合されうる。その特殊な手段こそ貨幣である。こうして今や、人間と人間の関係は貨幣で測られることになる。言い換えれば、それは数量化された交換の次元へと取り込まれるのである。交換の原理はあらゆる領域へと広がってゆく。人格間において生じるものであった義務も例外とはならない。こうして、義務やモラルといったものが負債と結びつくことになる。

ところでグレーバーによれば、暴力は、貨幣のあり方に対して興味深い影響を歴史的に与えてきたという。すなわち、暴力が支配的な社会においては金(貴金属)が優勢となるのに対し、相対的に平和な社会においては信用貨幣が優勢となる、というのである。

ここで再びマルクスを補助線として用いることができる。彼の術語を用いて言い換えれば、暴力は“社会的紐帯”を解体し、「私的労働」と商品生産を支配的なものとすることで、商品をはじめとする物の力を強くする、すなわち「物象化」を推し進める(金の優位)。それに対して暴力が弱まれば“社会的紐帯”の力は回復し、商品生産への依存度が下がり「物象化」の力は弱まる(信用貨幣の優位)というわけである。

こうした議論は確かに興味深いものの、同時にグレーバーの理論の困難を露呈してもいる。

例えば、現代資本主義社会において米国は莫大な負債を抱えている。それゆえ、理論に従うならば米国は多大なる義務を負わねばならないはずである。しかし現実はそうではない。

加えて現代社会は暴力に満たされた社会である(利潤率は低下し、軍事産業が余剰資本の吸収先となっている)。だとすれば金が優位に立たねばならないはずだが、現実に働いているのは不換制(信用貨幣)である。

こうした事態をどう理解すればよいのか。

マルクスの理論が、グレーバーの困難を解消する鍵となる。——これが斎藤幸平氏の応答である。端的に言えば、資本主義のもとで増大した「物象化」の力は、人格間の関係において生じるものであった“紐帯”や“信用”を呑み込み、資本の価値増殖の論理に適応する形で組み換えてしてしまう。ここに問題の核心がある。共同体が徹底して解消し尽くされたのち、“信用”は疑似的共同体を立ち上げるものの、資本主義と融合して独自のシステムを創り出してしまう。それゆえ、実体経済へと目配りをしつつ、同時に、“信用”そのものが「物象化」のもとで果たす役割を考察する必要がある。グレーバーとマルクスの創造的「対話」の余地は、まさしくここにある。

以上の発表を受け、伊達聖伸氏からはモースを介したアナキズムの可能性について、そして受田宏之氏からは、むしろ国家をいかにして積極的に評価すべきかについて問題が提起された。多岐にわたる議論をここで総括することは叶わないが、差し当たり、議論の中心は理論と実践との接点を巡るものであったとだけ述べておく。

【報告者:中谷勇輝(教養学部学生)】