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Nov 10 2022 15:00~16:30

【参加記あり】第4回グローバル・スタディーズ・セミナー 川喜田敦子「移動する人々と国民の輪郭 ― 占領期ドイツにおける他者との接触」

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【参加記あり】第4回グローバル・スタディーズ・セミナー 川喜田敦子「移動する人々と国民の輪郭 ― 占領期ドイツにおける他者との接触」


【日時】2022年11月10日(木)15:00~16:30

【開催場所】ウェビナー(要事前登録)

【司会】伊達聖伸(総合文化研究科地域文化研究専攻)

【コメント】吉国浩哉(総合文化研究科言語情報科学専攻)・受田宏之(総合文化研究科国際社会科学専攻)

【言語】日本語

【共催】地域文化研究専攻(今回のグローバル・スタディーズ・セミナーは、地域文化研究専攻研究集会を兼ねるものです)

【要旨】近年のドイツでは、流入する移民・難民をどのように受け入れるかをめぐって、国内世論を二分するような議論が繰り広げられてきた。この状況にあって、ドイツが歴史のなかで「自己」と「他者」の境界をいかに定めてきたのかを改めて振り返る意味と必要が生じているように思われる。今回の報告では、そのような関心から、第二次世界大戦後の占領期に焦点を合わせてみたい。この時期には、占領者と被占領者、国境変動にともなって強制移住させられた人々(被追放民)、戦争捕虜・元強制労働従事者・強制収容所からの帰還者をはじめとするディスプレイスト・パーソン(DP)など、様々な集団の移動と接触が生じた。戦後初期のドイツが向きあうことになった移動する人々のうち、ドイツ人として受け入れられていった被追放民、外国人として扱われながらも歴史的経緯から特殊な法的地位を得るにいたったディスプレイスト・パーソンという二つの集団を中心に、ドイツ人とドイツ人の周縁・周辺に位置する人々が相互にどのような関係を築いたのか、「ドイツ人」と「非ドイツ人」の間の線引きがどのような形をとったのか、そのなかでナチ体制崩壊後のドイツで国民の輪郭がどのように定まっていったのかを考えたい。

【参加記】ドイツは、歴史のなかで「自己」と「他者」の境界をいかに定めてきただろうか。「ドイツ」とは地理的にどこを指し、「ドイツ国民」には誰が含まれるだろうか。この国家(あるいは国民)の礎となる問いとそれへの回答は、常に歴史的に生成されたものであり、それは絶えず変転を伴った。第4回目を迎えたGSIセミナーに登壇したドイツ現代史家の川喜田敦子教授は、第二次世界大戦後の占領期を射程に、ドイツ内外を「移動する人々」がもたらす「内部」と「外部」の接触、また、その接触が促した国民の境界の変動を詳らかにされた。

具体的には、戦後初期ドイツを「移動する人々」として、二つの周縁的な集団、すなわち、「被追放民」と「ディスプレイスト・パーソン(以下、DP)」が分析の俎上に載せられた。こうした周縁的な存在との接触が、「ドイツ人」の輪郭を形成した。戦争とその終結が、人の移動と接触を促した結果、大戦終結直後のドイツには、多種多様な社会集団が混在することとなった。その一例として挙げられるのが、被追放民であり、DPである。被追放民とは、強制移住によってドイツ国内に流入したドイツ系の人々である。それに対し、DPとは、戦争の影響により、大戦終結後も自国の国境外に存在した民間人を指す。ドイツの場合、強制収容所を生き延びたユダヤ人DPに加え、数の上ではユダヤ人DPを凌駕した東欧出身(ポーランド、チェコスロヴァキア、ユーゴスラヴィアなど)のDPが特に問題となった。

本セミナーでは、⑴両集団は法的にどのように規定されたのであろうか、並びに、⑵日常において、両集団はどのように認識され、その際に両集団をめぐるどのような言説が形成されたのだろうか、という二点に主眼が置かれた。

まず、法的位置付けにおいて、両集団は鋭い対照をなした。被追放民の法的地位は、西ドイツ基本法116条、そして、1953年の連邦被追放民法、1955年の国籍規定に関する法律によって定められた。ここでは、「ドイツ人」の基準は、「ドイツ民族に属するかどうか」という点が指標となり、ドイツ民族に属する者は、ドイツ国籍者でなくとも「国民」の範疇に含まれた。他方で、DPはあくまでも「外国人」にとどまった。西ドイツでは、1951年にDPの法的地位に関する連邦法が成立し、DPは「無国籍外国人」として新たに位置付けられた。ここでは、DPに特別な滞在権・在住権が認められた一方で、これは、被追放民に与えられたような特権(緊急援助、統合支援、文化保護)がDPには認められなかったことを意味した。

法的に西ドイツにとどまることが許された両集団であったが、日常においては、両集団には、「われわれ」以外の「異物」に対する眼差しが向けられた。とりわけ、DPキャンプは犯罪の温床と考えられ、DPは警察の強い警戒対象となった。特に、闇市においては、「真の犯罪(Verbrechen)」と「時代に条件づけられた法律違反(Rechtsbrechen)」を区別する論理が構成され、前者は「犯罪者」として侮蔑の対象となる一方で、後者―すなわち、日々の困窮を理由とした闇市取引―は免罪される風潮が成立した。このとき、DPは前者に振り分けられた。ここにおいて、人種主義、反ユダヤ主義の継続が確認できると川喜田教授は指摘する。こうした人種主義的な連続性は、「他者」たちの性と次世代の再生産をめぐる議論でも先鋭化した。

川喜田教授の報告から明らかにされたのは、「自己」と「他者」の境界づけは局面により流動的であったという事実だ。今回の事例に即するならば、⑴ドイツの近代において連綿と引き継がれてきた規範と、⑵ナチ時代から連続する人種主義的な心性と、⑶戦後の情勢に規定された新たな諸条件の混交が、戦後初期のドイツ人の輪郭を形成したと言える。特に、近代の人種主義イデオロギーが戦後も一部継続したという指摘は、近現代ドイツのジェンダー史を専門とする執筆者にとっても首肯できるものであった。

以上概観したような、戦後初期ドイツの被追放民とDPをめぐる諸問題を川喜田教授がご報告された後、コメンテーターの吉国浩哉教授と受田宏之教授から質疑が行われた。戦後初期以降の両集団の歩みや、闇市の日独比較の可能性などが示唆され、フロアからも活発な議論が展開された後、本セミナーは閉幕した。

【報告者:瑞秀昭葉(総合文化研究科地域文化研究専攻博士課程)】