【参加記あり】第2回グローバル・スタディーズ・セミナー 藤岡俊博「レヴィナスのエッセイを読む―脇道からのレヴィナス入門―」
【日時】2022年9月26日(月)15:00~17:00
【場所】Zoom Webinar
【タイトル】「レヴィナスのエッセイを読む―脇道からのレヴィナス入門―」
【報告者】藤岡俊博(総合文化研究科地域文化研究専攻)
【司会】伊達聖伸(総合文化研究科地域文化研究専攻)
【コメント】國分功一郎(総合文化研究科超域文化科学専攻)・村上克尚(総合文化研究科言語情報科学専攻)
【言語】日本語
【共催】地域文化研究専攻(今回のグローバル・スタディーズ・セミナーは、
【要旨】ロシア帝政末期のリトアニアに生まれ、
【参加記】犬と聞けば何が思い浮かぶだろう。かわいいペット(チワワ)? 忠実な番犬(ドーベルマン)? 食い意地の権化(ビーグル)?
「犬」は、上司や組織に唯々諾々と従う輩への罵倒語でもある。負け犬の遠吠え、弱い犬ほどよく吠えるといった表現にも、犬への侮蔑的な響きがある。従順な犬でも、狡兎が死ねば煮殺されてしまう。ただ歩いているだけで、棒で打たれることさえある。これらの諺の背景には、犬たちの人間への屈従と、にもかかわらず降りかかる酷遇を自明視する見方がある。フランス語でも事情は変わらない。「ボーリング遊びに入ってきた犬のように」とは邪険にすることの喩えだ。「飼い犬を〔捨てたくなって〕溺死させたがる者は、狂犬病ということにしてしまう」(=どんな難癖もつけてしまう)という言葉もある。
本セミナーの主役は、この「犬」だ。エマニュエル・レヴィナスの短いエッセイ「犬の名 あるいは自然の権利」(1975)を題材に、藤岡俊博准教授が発表なさった。まず「犬の名」全文を、ご自身による訳と解説を交えて講読して論点を整理したのち、コメンテーターの國分功一郎教授と村上克尚准教授、司会の伊達聖伸教授らと質疑応答を行うという順序で進行した。
「他者」への「責任」に基づく倫理思想で知られるレヴィナス。もともとリトアニア生まれのユダヤ人だが、フランスに帰化し、フランス語で著述し、フランス軍の一員として第二次大戦に従軍した。部隊はドイツ軍の捕虜となり、彼自身も長く抑留生活を余儀なくされたが、戦後、その経験を公に語ることはほとんどなかった。ほぼ唯一の例外が、今回取り上げるエッセイ「犬の名」なのだ。
本作のハイライトは、捕虜収容所に現れた迷い犬・ボビーにまつわる述懐にある。捕虜たる我々は、周囲の人々の好奇と憐憫の視線に否応なく晒されていた、とレヴィナスは言う。それは人間に対する扱いではなかった。ただボビーだけが我々を人間扱いしてくれた、と。感動的な叙述だ。だが藤岡先生の見立てでは、この感動に注目が集まるあまり、エッセイの思想的な深みは十分に掘り下げられていない。
「犬の名」の主題は、犬にまつわる旧約聖書「出エジプト記」からの二つの引用だ。一に、宗教上の規定に抵触する肉は食べるな、犬に投げ与えよ、という聖句。これをレヴィナスは、先述したフランス語表現の類を連想しながら咀嚼する。邪魔者扱いされる惨めな犬っころどもには、穢れた肉でも食わせておけというのか。否、どんな犬にも野性の誇りは残っていよう。二に、エジプトから(≒隷属状態から)脱出するユダヤ人を、犬たちが吠えずに見逃してくれるという記述。おかげで敵に気づかれずに逃げられたのだから、人間はその自由を犬に負っていると言える。
二つの聖句における「犬」は、馴化(服従)と野性(自由)の境界線上に、換言すれば「犬と狼の間」にいる(このフランス語の熟語は、両者が区別できぬほど薄暗い「黄昏時」の意でもある。理性の光が弱まる時間とも言える)。犬たちは、倫理やロゴスによらない仕方で、人の自由と尊厳を証してくれたのだった。
講読から浮き彫りになるのは、人間の自由に関するレヴィナスの危機感だ。捕囚生活において、生きているだけでは権利は生じなかった。自然権という概念は建前にすぎなかった(この主張は本小品の題にも仄めかされていると藤岡先生は睨む。「犬の名」という表現には「こん畜生」といった意味もあるから、副題と併せて、「自然権なんて嘘っぱちだ」などとも解せるのだ)。
自由は失われうる、だからこそ守らねばならない。「犬の名」のテーゼに、批判を受けかねない部分があることは否めない。動物の権利に関する問題、人間中心主義的傾向、軽率な引用がはらむ政治的リスクなどには、留意すべきだ。だが、それらを受け止めてなお何か積極的なものが読み取れるとしたら。「犬の名」という「脇道」的テクストはこうして、レヴィナス思想の一つの核に迫る近道、あるいはひょっとすると王道としての姿を、見せてくれることとなった。
【報告:板部泰之(東京大学総合文化研究科言語情報科学専攻博士課程)】