イベント

Sep 26 2022 15:00~17:00

【参加記あり】第2回グローバル・スタディーズ・セミナー 藤岡俊博「レヴィナスのエッセイを読む―脇道からのレヴィナス入門―」

グローバル地域研究機構(IAGS)GSISPRING GX対象コンテンツ

【参加記あり】第2回グローバル・スタディーズ・セミナー 藤岡俊博「レヴィナスのエッセイを読む―脇道からのレヴィナス入門―」


【日時】2022年9月26日(月)15:00~17:00

【場所】Zoom Webinar

【タイトル】「レヴィナスのエッセイを読む―脇道からのレヴィナス入門―」

【報告者】藤岡俊博(総合文化研究科地域文化研究専攻)

【司会】伊達聖伸(総合文化研究科地域文化研究専攻)

【コメント】國分功一郎(総合文化研究科超域文化科学専攻)・村上克尚(総合文化研究科言語情報科学専攻)

【言語】日本語

【共催】地域文化研究専攻(今回のグローバル・スタディーズ・セミナーは、地域文化研究専攻研究集会を兼ねるものです)

【要旨】ロシア帝政末期のリトアニアに生まれ、フランス語で著述活動をおこなったエマニュエル・レヴィナスは、今日、20世紀のフランスを代表する哲学者の一人とみなされている。他者の「顔」をまえにした無限の「責任」について述べるその思想は、独特の用語や難解な文章、ユダヤ教の背景などによって、しばしば近寄りがたいものと思われている。しかし、晦渋な哲学のテクストを残したレヴィナスは同時に、短い文章のなかに自身の思想のエッセンスを凝縮させる優れたエッセイストでもあった。本発表では、レヴィナスが捕虜収容所で出会った一匹の犬について語る有名なエッセイ「犬の名――あるいは自然の権利」(1975年)を読みながら、レヴィナスの思想に脇道から分け入ることを試みてみたい。

【参加記】犬と聞けば何が思い浮かぶだろう。かわいいペット(チワワ)? 忠実な番犬(ドーベルマン)? 食い意地の権化(ビーグル)?

「犬」は、上司や組織に唯々諾々と従う輩への罵倒語でもある。負け犬の遠吠え、弱い犬ほどよく吠えるといった表現にも、犬への侮蔑的な響きがある。従順な犬でも、狡兎が死ねば煮殺されてしまう。ただ歩いているだけで、棒で打たれることさえある。これらの諺の背景には、犬たちの人間への屈従と、にもかかわらず降りかかる酷遇を自明視する見方がある。フランス語でも事情は変わらない。「ボーリング遊びに入ってきた犬のように」とは邪険にすることの喩えだ。「飼い犬を〔捨てたくなって〕溺死させたがる者は、狂犬病ということにしてしまう」(=どんな難癖もつけてしまう)という言葉もある。

本セミナーの主役は、この「犬」だ。エマニュエル・レヴィナスの短いエッセイ「犬の名 あるいは自然の権利」(1975)を題材に、藤岡俊博准教授が発表なさった。まず「犬の名」全文を、ご自身による訳と解説を交えて講読して論点を整理したのち、コメンテーターの國分功一郎教授と村上克尚准教授、司会の伊達聖伸教授らと質疑応答を行うという順序で進行した。

「他者」への「責任」に基づく倫理思想で知られるレヴィナス。もともとリトアニア生まれのユダヤ人だが、フランスに帰化し、フランス語で著述し、フランス軍の一員として第二次大戦に従軍した。部隊はドイツ軍の捕虜となり、彼自身も長く抑留生活を余儀なくされたが、戦後、その経験を公に語ることはほとんどなかった。ほぼ唯一の例外が、今回取り上げるエッセイ「犬の名」なのだ。

本作のハイライトは、捕虜収容所に現れた迷い犬・ボビーにまつわる述懐にある。捕虜たる我々は、周囲の人々の好奇と憐憫の視線に否応なく晒されていた、とレヴィナスは言う。それは人間に対する扱いではなかった。ただボビーだけが我々を人間扱いしてくれた、と。感動的な叙述だ。だが藤岡先生の見立てでは、この感動に注目が集まるあまり、エッセイの思想的な深みは十分に掘り下げられていない。

「犬の名」の主題は、犬にまつわる旧約聖書「出エジプト記」からの二つの引用だ。一に、宗教上の規定に抵触する肉は食べるな、犬に投げ与えよ、という聖句。これをレヴィナスは、先述したフランス語表現の類を連想しながら咀嚼する。邪魔者扱いされる惨めな犬っころどもには、穢れた肉でも食わせておけというのか。否、どんな犬にも野性の誇りは残っていよう。二に、エジプトから(≒隷属状態から)脱出するユダヤ人を、犬たちが吠えずに見逃してくれるという記述。おかげで敵に気づかれずに逃げられたのだから、人間はその自由を犬に負っていると言える。

二つの聖句における「犬」は、馴化(服従)と野性(自由)の境界線上に、換言すれば「犬と狼の間」にいる(このフランス語の熟語は、両者が区別できぬほど薄暗い「黄昏時」の意でもある。理性の光が弱まる時間とも言える)。犬たちは、倫理やロゴスによらない仕方で、人の自由と尊厳を証してくれたのだった。

講読から浮き彫りになるのは、人間の自由に関するレヴィナスの危機感だ。捕囚生活において、生きているだけでは権利は生じなかった。自然権という概念は建前にすぎなかった(この主張は本小品の題にも仄めかされていると藤岡先生は睨む。「犬の名」という表現には「こん畜生」といった意味もあるから、副題と併せて、「自然権なんて嘘っぱちだ」などとも解せるのだ)。

自由は失われうる、だからこそ守らねばならない。「犬の名」のテーゼに、批判を受けかねない部分があることは否めない。動物の権利に関する問題、人間中心主義的傾向、軽率な引用がはらむ政治的リスクなどには、留意すべきだ。だが、それらを受け止めてなお何か積極的なものが読み取れるとしたら。「犬の名」という「脇道」的テクストはこうして、レヴィナス思想の一つの核に迫る近道、あるいはひょっとすると王道としての姿を、見せてくれることとなった。

【報告:板部泰之(東京大学総合文化研究科言語情報科学専攻博士課程)】