イベント

Jun 30 2022 15:10~16:40

【参加記あり】第1回グローバル・スタディーズ・セミナー 井上博之「地図にない場所を創る——『メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬』、米墨国境地帯、ウェスタンの変容」

グローバル地域研究機構(IAGS)GSI

【参加記あり】第1回グローバル・スタディーズ・セミナー 井上博之「地図にない場所を創る——『メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬』、米墨国境地帯、ウェスタンの変容」


【日時】2022年6月30日(木)15:10~16:40

【場所】Zoom Webinar

【スピーカー】井上博之(総合文化研究科地域文化研究専攻)

【タイトル】「地図にない場所を創る——『メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬』、米墨国境地帯、ウェスタンの変容」

【司会】伊達聖伸(総合文化研究科地域文化研究専攻)

【コメント】國分功一郎(総合文化研究科超域文化科学専攻)・吉国浩哉(総合文化研究科言語情報科学専攻)

【言語】日本語

【共催】地域文化研究専攻(今回のグローバル・スタディーズ・セミナーは、地域文化研究専攻研究集会を兼ねるものです)

【要旨】虚構の物語を構築する映画や小説はグローバル化の時代を生きるためになにを教えてくれうるのだろうか。1つのテクストを丁寧に読む行為は世界を思考することにどのようにつながりうるのだろうか。アメリカ合衆国と深く結びついたジャンルであるウェスタンは、勇敢な開拓者や孤高のガンマンの活躍によって安定した共同体が成立する過程を繰り返し語ってきた。ウェスタンは特定の国家の特定の地域と結びついた名前を持つおそらく唯一のジャンルである点において非常にローカルかつナショナルな物語の型であり、野蛮や悪の排除・克服のうえに成り立つ社会を描く点において均質性を強く志向するものであるように見える。しかし、他方では時代とともにつねに変化を続けてきたジャンルでもある。その1つの例として本報告で取りあげる映画『メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬』(The Three Burials of Melquiades Estrada, 2005)は、合衆国の俳優として長いキャリアを持つトミー・リー・ジョーンズが監督し、メキシコの作家ギジェルモ・アリアガが脚本を執筆した作品である。ここでは1人のメキシコからの移民の死をめぐって復讐と贖罪の物語が語られる。ウェスタンやミステリー、ロード・ムービーなどの要素を取りいれながら2001年の同時多発テロ以降の米墨国境地帯を描くこの作品は、複数のレベルで身近なものと異なるものとのあいだの境界線を撹乱していく。本報告では、この映画の詳細な分析をはさみながら——ドナルド・トランプの国境の壁建設宣言でも話題になったように—現在もグローバルな課題を提示し続けているこの場所に1本の映画がどのように向きあっているのかを考えてみたい。その過程において、最初に投げかけた2つの大きな問いに答えるとまではいかなくてもフィクションをとおして世界について考えることのおもしろさを共有できればと思う。

【参加記】「アメリカ西部もの」つまり「ウェスタン」ときいて、馬に乗った男たちのロマンチックでどこか古風な物語を思い出すのは、私だけではないだろう。その認識を覆えすのが、井上博之准教授による今回の発表であった。

2022年6月30日に開催された同セミナーは、①井上先生の研究上の関心の概略、②ウェスタンの古典作品の紹介、③『メルキアデス・エストラーダの三度の埋葬』(以下『メルキアデス』)の分析、④コメンテーターの國分功一郎教授と吉国浩哉教授、司会の伊達聖伸教授からのコメントと質問という流れで行われた。以下に発表内容をごく簡単にまとめたい。

アメリカ西部において「境界」は重要な意味をもつ。なぜなら西部はアメリカとメキシコの国境であると同時に、実在する土地という「リアル」とハリウッド産の西部劇による「イメージ」(フィクション)の「境界」でもあるからだ。現にウェスタンは度々「境界」を巡る物語を生み出してきた。ただ、似たテーマや物語展開を扱いながらも、ウェスタンは決して同じ物語を繰り返してきたわけではない。各作品は作られた時代を色濃く反映しているのだ(例えば『シェーン』では冷戦の構造が背景にある)。

では、現代のカウボーイの物語『メルキアデス』では一体なにが語られるのだろうか。1997年に実際に起きた海兵隊員による移民誤射殺事件と、9.11に起因する過激に排他的なアメリカ社会を背景にしながら、「国境」そして「ホーム」とはなにかを『メルキアデス』は問い直す。

発表で特に注目されたのは、映画内の「境界」で起こる「反転」だ。『メルキアデス』では、善と悪、親しいものと見知らぬもの、殺したものと殺されるものなど、さまざまなものが一瞬にして反転する。一例として映画冒頭の分析を紹介する。ウェスタンではオープニングを西部の雄大な土地のショットから始めることがお約束になっている。『メルキアデス』もその例にもれず広大な大地の映像からはじまるが、本作は一味ちがう。はじめ、カメラは荒野を水平に移動しその広さを強調する。だが、画面に車が一台現れると水平移動をやめ、その車を中心にとらえようと下降し、運転する国境警備の自警団の姿をズームアップする。井上先生はこのカメラの動きを「監視カメラ」の視線であると指摘し、ここでは通常監視「する」側である自警団が監視「される」側に「反転」していると説明した。

発表を聞きながら、井上先生の注目する「反転」は、ウェスタンの分析で多く指摘される「混交」とは違った趣を持つと感じた。味方も敵も「一瞬」にしてちがうものに変容する可能性に晒された場所で求められるのは、「他者」を理解し自己と一体化させることではなく、相手に対し常に注意深く目をこらし続けることだ。その意味で『メルキアデス』は、水面下で溜まった不安や不満の爆発として唐突に「境界」が出現する現代においてこそ、重要な意味をもつのではないだろうか。

【報告:岩佐頌子(東京大学人文社会系研究科欧米系文化研究専攻博士課程)】